OB座談会 Part1

創成期メンバーが語る
コニカミノルタスピリットの源泉

  • 土屋勝さん

    土屋勝さん 1972年入部。1973年、全日本駅伝初出場メンバーのひとりとして4区を走った。

  • 山口茂さん

    山口茂さん 1973年入部。全日本駅伝初出場メンバーとして2区を走る。1983年からマネージャーに。

  • 橋口弘さん

    橋口弘さん 1977年入部。1984年まで選手として活躍。全日本駅伝には6回出場。

  • 斎藤五郎さん

    斎藤五郎さん 1978年入部。1982年まで選手として活躍。全日本駅伝には4回出場。

  • 市川寛さん

    市川寛さん 1979年から15年間事務局として陸上競技部を支えた。

  • 酒井勝充副部長

    酒井勝充副部長 1978年入部。全日本駅伝に11回出場。1981年には全日本駅伝でチーム初となる区間賞を獲得。

50年前、予算も、練習時間も、寮もない、
クラブ活動「陸上班」からスタートした陸上競技部。
陸上への情熱を胸に切磋琢磨し合ったメンバーが集結し、当時のことを語り合った。

入社の経緯をお聞かせください。

  • 土屋大学や企業などから誘いがあったのですが、当時、マラソンで活躍していた原嘉則選手に憧れて、原さんと一緒に練習ができるということで小西六写真工業(株)(後のコニカ株式会社)を選びました。
  • 山口私は土屋さんと同じ高校の1年後輩で、先輩もいるし実家の八王子に近いということで入社しました。
  • 橋口私は大東文化大で4年間箱根を走ったこともあって、いろいろとお話があったんですが、当時の監督から熱心にお誘いいただいて入った次第です。
  • 酒井私の場合は高校を出たら秋田の国鉄に入って駅伝を続けようと思っていたんですが夢叶わず、結局学校の先生の紹介で小西六の試験を半年遅れで受けて入社しました。だから拾ってもらったという感覚ですね。
  • 斎藤私は酒井さんと同期入社です。当時は「小西六」を知らなかったんですけど、陸上競技部専用の寮があると言われたのが理由です。

陸上競技部は、山田光良さんの尽力で発足したとうかがっています。当時のことはご存知ですか?

  • 市川創部当時は私もまったく関わっていなかったので、話は聞いていましたが、詳しい経緯は知らないんです。ただ、山田さんという人は根っからの陸上好きでね。お兄さんも八王子陸協の役員をやっていたりと、いわゆる陸上一家で、当時会社にあった野球班やバレー班などの様に陸上競技も班として活動しようとしたのが始まりでした。
  • 酒井1970年に明治製菓から原さんが移籍してきたことをきっかけに部になったと聞いています。
  • 山口強い選手を採用し出したのもその年でした。
  • 土屋その後実業団駅伝に必要な人数が揃ったのが1972年です。当時、全日本実業団駅伝に出るには東日本で上位6位に入らないといけない。そこを目標にスタートしました。
  • 酒井土屋さんが入った1972年が東日本初出場で13位。
  • 土屋その翌年に6位に入り、全日本への切符を獲得したんです。

当時の部の雰囲気はどのようなものでしたか?

  • 山口先輩も後輩もない感じで、楽しくやっていましたね。練習後にしょっちゅう八王子に飲みに行って。
  • 土屋大会が終わると飲み屋を探してましたね(笑)。
  • 山口正月の初練習は高尾方面にみんなで走りに出て、大垂水から相模湖を回る1周40kmぐらいのコースを走ってから、監督の原さんの家に行って飲んで食べて帰ってた。それが新年会でした。

定時まで仕事。暗くなってから練習へ

当時の練習環境についても教えてください。

  • 山口私や土屋さんの時代は定時まで仕事をして、冬は真っ暗な中で走っていました。専用グラウンドもないから、道路を走って信号で止まったりしていました。
  • 土屋私の場合は1時間半以上かけて通勤していたので、練習時間の捻出に苦労しましたね。仕事を終えて夜練習してから家に帰ると22時。朝は6時に起きて出ないと間に合わないので朝練がしたくてもできなかった。
  • 山口私の朝練は今でいう通勤ラン。月曜日に荷物を全部会社に持っていき、火曜から金曜まで毎朝走って会社へ行っていました。残業する選手も結構多く、夜の練習も全員が集まって行う環境ではなかったですね。
  • 土屋生産現場では、残業をやると言われたら抜けられない。工程が止まってしまうので。
  • 橋口私は土屋さん、山口さんより後に入っていますが、仕事は17時までやっていました。
  • 酒井我々が入った年から、冬場だけ15時に仕事を終えて練習できるようになった。多分、当時監督だった原さんか山田さんが折衝してくれてたんでしょうね。
  • 斎藤練習は監督が週に2~3回ポイント練習のメニューを作って、あとは各自やるような感じでした。
  • 橋口土日は自主練で高尾山に行ったりしてましたね。
  • 斎藤春先には1週間、高尾山で合宿でした。
  • 酒井毎日山を走って、すごくきつかった。
  • 土屋私たちの頃は高尾山荘という国民宿舎に泊まっていました。陣馬山までの往復が定番コースです。
  • 山口間違って相模湖方面に下りちゃったりしましたね(笑)。大垂水峠を歩いて帰ってきたことがありますよ。当時は休みの日しか使えなかったので、ゴールデンウィークは高尾山で合宿、夏休みは霧ヶ峰にある会社の保養所で合宿。交通費や宿泊代などは会社から出ていたと思います。
  • 市川スタッフサイドとしては、その経費の処理が大変だったんです。陸上競技部の予算が 決まっていなくて、その都度経理課と交渉してね。ずいぶんやり合いました。

日野工場と八王子工場の文化の差

当時、走ることは仕事ととらえていらっしゃいましたか?

  • 土屋僕らの頃はそこまでは思っていないですね。定時まで仕事をしていましたから。ただ周囲からは“ノンプロ”と言われました。会社から厚遇されて予算や時間をもらって走っている、という意味なんですが、そうではなかったので、それは「違う」って思っていましたね。
  • 斎藤私はもう割り切っていました。走るためにこの会社に来たんだと。残業もしたことないです。
  • 橋口土屋さん、山口さんの頃と、その後の世代では違いますね。時間がもらえるようになったのは大きい。
  • 酒井入社する時に言われたんです。「時間内は仕事をやれ。でも残業はさせない」と。だから早く上がって練習に行く時も何の後ろめたさもなかった。
  • 市川80年代前後でしたね、14時から練習ができるようになったのは。製造関係の忙しい職場ではなく、時間を融通しやすい部署に選手を配属するようにもしました。それと、陸上競技部のことを会社のみなさんによく知ってもうために、日野工場と八王子工場の両方に配属するようにしたんです。ただ、もともと日野工場から発生した部だから、やはり周囲の理解が違う。
  • 橋口私は八王子だったんですが、まわりの理解がまだあまりなく、日野はいいなとずっと思ってました。だから練習を終えてからまた職場に戻って一通り仕事を終える、ということをやっていた。割り切ればよかったのかもしれないけど。
  • 土屋日野は社員全体に走る文化があって、昼休みに走る社員も多かったし、職場対抗の駅伝もありました。
  • 酒井現在でも、陸上競技部員は同じ職場に2人以上配置しないんです。会社の多くの部署に理解していただこうということで。この時からの流れなんですね。

廃部の危機を乗り越えて

後に強くなっていく“種”のようなものがこの時既にあったとしたら、それは何でしょうか?

  • 斎藤強豪チームへの強いライバル心はありましたよね。旭化成、神戸製鋼、カネボウ、リッカー。メンバー全員大卒の箱根駅伝経験者で固めてくるチームとか。
  • 橋口「なにくそ!」という感じはありましたね。うちはハートが強い選手がスピリットで戦っていた感じがします。そういう意味で優秀だった。
  • 山口環境が整ってきたのも大きい。寮ができ、食事も充実してスタッフも整うと、強い選手も集まってくる。強い選手を発掘しにも行けるようにもなる。
  • 市川平成何年だったかな。アメリカから帰ってきた小宮さんという人事部長から、当時の味沢監督と2人で呼ばれたんです。そして「君たちは陸上競技部を本気で強くする気持ちはあるのか、ないのだったら廃部にするよ」と。
  • 橋口ほお!そんなことが?
  • 市川1週間かけて味沢監督と2人で3年間の強化計画を作り上げてやっと認めてもらった。その代わり予算もちゃんと確立してくれたんです。あれは大きな転機になったと思います。それまでは漠然と東日本、全日本駅伝でいい成績を上げようっていうだけでしたから。ところがその後、選手だった松山三政さんが「今の体制を変えるべきだ」と。「今のままではとても勝てる雰囲気ではない。人心を一新しなくては強くなれない」と言いに来た。その後、上位方針から強化施策として当時まだ選手だった酒井さんに監督をお願いすることにしたんです。
  • 斎藤本当に強くしたいと思っていたからこその行動だったんでしょうね。
  • 橋口私もその頃いろんな人に相談受けましたよ。
  • 市川その後、当の松山さんは全日本実業団駅伝の優勝を見ることなく若くして亡くなってしまった。見せてあげたかったですね。その後8回の優勝というのは、旭化成に次いで2番目の記録です。やっぱり酒井さんはすごいエネルギーを持っていたわけですね。
  • 酒井チームの雰囲気が活性化すると、うちは強くなるんです。廃部にされる瀬戸際の時期に私が突然監督に担ぎ上げられて、もうやるしかないと捨て身でやっていた時もそう。みんなが同じ気持ちでやっていたからいい方向に向かったんだと思います。
  • 市川OBの方々の支援もあってね。山口さんは選手をやめられてからマネージャーとして支えてくれていた。
  • 酒井土屋さんもよく現場に顔を出してくれましたし。そういう家族的な文化がうちにはありますよね。

これからの陸上競技部に期待すること

これからのコニカミノルタ陸上競技部にどんなことを期待しますか?

  • 橋口全日本実業団駅伝の優勝はもちろんですが、国際的な選手の輩出が私の願いですね。オリンピックメダリストであるエリック・ワイナイナが活躍した時は非常に活性化していたので。
  • 山口マラソンやトラックで世界と戦える選手になってもらいたい。チーム内のコミュニケーションをよくして、監督、コーチと共に強くなっていってほしいですね。
  • 土屋私が原さんに憧れたように、若い選手がその選手と一緒に練習したいと思うような選手が出てきてほしい。
  • 市川東日本、全日本実業団駅伝でいい成績を上げていただきたい。あとは、やはり会社としてやってきているわけですから、オリンピック選手を出して欲しいというのが願いであります。
  • 斎藤陸上界もプロ化が進んでいますが、走って終わりではなく、社会人としての人間性も大切です。コニカミノルタはそれができる場所だと思うんです。選手たちは陸上を通して人間形成して、競技を終えた後も人間として成長していけるような道を歩んでほしいですね。
  • 酒井選手たちは自分が立てた目標にこだわって、ブレずにやり抜いてほしいと思います。泥臭くやらないと上には上がれない。上ばかり見るのではなく、土台を固めることによって、世界やオリンピックが見えてくるのだと思っています。

初優勝メンバーが語るコニカミノルタイズム形成の現場

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